昭和44年06月23日 月次祭
信心を頂いておるということが、こんなにも有り難いという思いを、日々と日々というより刻々それを感じれる、いわゆるひとつ信心を身につけたい。信心を頂いておるということが、こんなにも有り難い。ややも致しますとその思いが欠けて、きつかったり眠かったり又は苦しかったり、様々な悩みを感じたり致します。信心を頂いておるということがこんなにも有り難いという思いを思い続け、頂き続けれるということが、信心の願いであり又同時にそれは神様の氏子に対する願いでもあるのでございます。
氏子信心しておかげを受けてくれよというのは、そういう心の状態。どのような場合にあっても、信心を頂いておるということが有り難いなぁと、実感さしてもらえれる生活。そういう生活を私は天地の親神様は、私共に求めておって下さっるのだとこう思います。それはなるほど先生の様に、こんなおかげ頂いておられりゃそれは有り難かろう。けれども私とてもそうばっかりはいかん。こういう例えばまぁ言うならば幸運児とでも申しましょうかね、万に一つもないようないうなら立場とか。
おかげをねこうして私は頂いておるということ、それは先生はそんなおかげを受けておられるから有り難いんだろうと思われるだろうけれども。その私とてもですもう一時でも油断を致しますと、その信心を頂いておるということが有り難いと、その有り難いということがですね感じれない。いや信心を頂いておる事が却ってじゅつなかったり苦しかったりする事があるんですね。ですからそういう例えば信心を頂いておるということが、有り難いという境地を目指してお互い信心の稽古をさせて頂く。
例えばお月次祭でもこうやって月に四回ございます。その度々のお月次祭にそれが今の言葉で言うと、マンネリになるというかね。もう慣れしまってもう当たり前のようになって、お祭りの感動感激と言った様なものもない、ものになってしまってあったんでは、お祭りの値打ちがない。けれども皆さんの場合でも、私共でも同じですけれども、はぁ又月次祭かと言う様な事が、無かろう様に思うですねだんだん。まぁ何日前んごとあったが又月次祭かと、月次祭が億劫になると言う様な事ではなくて、やはり新たなものとして新な事としてです。
それは三度三度のお食事はやはり同んなじようなものであっても美味しい様に、お月次祭が皆さんの場合も、それが有り難いものであるということを、私は信じます私もそれはそうです。ですからまぁいうならば同んなじ先生方が、同んなじ顔ぶれで同じようなことがある。お供えとても度々同じ事でお祭りが奉仕されておる。それでも銘々がなんとはなしに有り難いものが頂ける。ということはこれは大変皆さんの信心がね、今日私が言おうとする信心を頂いておるということが、有り難いと言う様なものが。
だんだん身についていきよる証拠ですね。月次祭だけではありません。例えば日々でもそうです。ただ今合楽で私の四時の御祈念、そして若先生が五時の御祈念、それから一時の御祈念只今は信行期間中ですから、それに皆さんが沢山集まって、信行祈念をなさいます。れからまた四時の私の御祈念、そして九時にまた夜の御祈念、これはもう実をいうたらそれが当たり前の事のようにして、それがなされておるんですけれども。実際はそれがやはり三度三度頂いてもおいしい御飯のように。
その御祈念の都度都度に御祈念の有り難さ、信心を頂いておるということの有り難さを、その都度都度に感じさせて頂くのでございます。けれどもここんところに一寸油断ができますとですね、形の事はなされておりましても、感動がない感激がない。先ほど大和さんが前講を務めておられましたが、今信行期間の一時からの御祈念に参加させて頂いて、こちらに入らせて頂いた途端に、あの異様なまでの雰囲気、何かそのう修行の心が一つになってです。
それが大広前一杯に広がって、それがそのう何か熱闘を捧げさせてもらう雰囲気というものがちゃんと出来て、いよいよその御祈念に入らせて頂きますと、もうそこには一心不乱何んにも無い。神様と御祈念なさる皆さんとが一体となって、その御祈念の修行が出来ているということがです。身体がしびれるような感動だと表現しておられます。これはね信心をもってしなければ頂けるものではないのです。まぁいうならばです本当にそういう信心を頂いておるということが、有り難いというだけではなくて。
たまには痺れる様な感動がね、全身をいわばも心もその中に陶酔させてもらえれるような、おかげをねお互い頂きたいものだとこう思う。ある場合には静かに静かに御祈念が続ける。それは大きな川の流れがね、流れておるかおらぬか分からないようでありましても、それがやはり静かに静かに流れておる。かも限りなく流れておる。場合にはとうとうとして流れておる。そういう時の流れ、そういう自然の流れというものがです、私共の信心の心で一つひとつそのとうとうと又は静かに。
様々なその時その場は違いましてもね、その事が有り難いものとして、信心を頂いておることが有り難いと感じられるおかげになっていって、そこに答えが出て来るおかげを頂かなくてはならなん。平穏無事なんにもない、そういう時に有り難い事だなぁと言うその心をもって、これでもう自分命は終えるとじゃなかろうか、もう息の根が切れるごとあると言う様なきつい時でありましても、それが自然に流れておる自然の働きであるとするならその事と共にです。
私共がその事を有り難いなぁと、このままお引き取り頂いても有り難いと言う様な、そこに信心を頂いておるということが有り難いなぁというのは、そういうことだと思うのです。自分の都合の良い時だけ、そんなら親先生が最近言いなさるけれどもね、何時も有り難い有り難い言いなさるけれども、こういうおかげを頂いて、いうなら百味の御食させてもろうて、皆んなから親先生親先生というて、神様のように扱われておられて、そりゃ有り難いのが当たり前というのではなくて。
そんなら私の信心修行時代のは、なら皆さんが御承知無い方が多いのですけれどもね、それこそ信心しとってどうしてこの様な事がと言う様な事が、次々とそれも続きましても、これはまぁだ私の信心が本当の物でない証拠だと思うて、やはりそういう中を信心で受け抜いていかれるということが、信心ちゃあ有り難いもんじゃなぁということであった。「大坪さんほんなこっですか、こういう苦しい中にあってから有り難い、有り難いと言いなさるが本当ですか」。
久保山先生が言われておったのですけれど、やっぱり有り難かったんです。静かに静かに、平穏無事おかげを頂いて、勿体無い様なおかげを頂いておってもです、この様なおかげを頂いておるという、そのおかげの実感が薄れて来て、信心を頂いておるということが有り難い事だなぁという、その有り難いというものが、心が神に向うていかないとするならば、これは由々しいことだ。そこにねお互いの信心の工夫が私はなされなければならないのじゃなかろうかと思うのです。
これは私の事ですけれども、例えば一日のいわゆる祈りに明け祈りに暮れさせて頂く一日ではございますけれども、やはり生身をもっておる事でございますから、眠い事もありゃあ苦しい事もありゃ、疲れる事もある。もうきついと思うたら、どうにもこうにもきついのが御結界です。本当にあのう若先生があのうこちらの御結界の机のここん所へですね、鉛筆の芯でこうこうやって芯を突き立てているんです。その鉛筆の芯の後がここに一杯ついているんです。それはまだ十二歳ですか十三歳頃から。
一時間づつではあるけれども、夕方奉仕させて頂くということは、まぁあの人はこれはもう例えば親戚に行っておっても、そのために泊まらんで帰って来るというくらいに、そのうそこに執念を燃やした訳です。それでいてもですやはり子供の一時間、只じっと座っておらねばならん事が、もう泣くごとはがゆいわけですね。それで鉛筆でこうこうやって突き立てて、私はあれを見せて頂いてから、この机は決して削ってはならん。もうここに傷が入っとるこの人がもう本当にいわば修行跡だから。
今でも是がはっきり残っておる程しに苦しい、どうにもしょうがない。ある時にゃもうそのちゃんと御結界で長くなって寝てしもうておるじゃん。それでもやはり動かずにその場で倒れておる。私はね信心にそういう辛抱の心というものが育って来なかったら、信心はいわゆる今日私が申します、信心を頂いておるということが、何時も有り難いと感じさせて頂く事が出来ず、またその合間に工夫させて頂くということでも。その辛抱を抜きにしては、私は頂けないと思う。様々な工夫がいる。
今日高芝さんの姉さんに当たります、藤島さんという方が時々参ってみえられます。今日お参りして「先生今日はこういうおかげを頂きましたから、お礼参拝をさせて貰うたと」こう言われる。何か電気の器具がいうならそのう金具らしいですね、その上に小さい紐でこうなんかゴムの様な物で括って上に吊ってあったんです。それがねお孫さんがその下を通られる通られた落ちたとが一緒じゃった。もうそれそれあれが先生頭んども当たっとるならもう、頭はもうそれこそ大怪我をしておったでございましょうけれども。
神様の私共のごだる無信心者でも、この様にしてお守り頂いておる事思わせてもらいますとそのう言われとられる。その時私は思い出した。もうあの熊谷さんところの、今の御長男の則郎さんが、福岡の予備校に行かれる時でしたです。電車の方へ進んでおる時に、上から電気工夫さんが、どうしてあんなものを上に置いて迂闊にしておっただろうかと思われる位に、こうやってから歩いておるこの、ぱっとこのさきのこの靴の前にぶすっと刺さったっち。大きな金の金棒が。
はぁあぁたまたこれが脳天でも刺さったらお終いだった。あの高い所から落ちて来たから。おかげ頂いてこういうことだった。そこで私は申しました。そりゃ確かにねここにご縁を頂いておる人達の上に、そういうお守り神様の働きを特別に頂いておるということは事実なんです。けれどもそれを広大なおかげを受けただけではいけん。それを一段と信心の、これからの信心の進める一つの動機とでもね、チャンスとも頂いて、ひとつ信心を進めていかなければいけない。
というお話しを色々させて頂いておりましたら、「先生実は今朝方からこういうお夢を頂いた」と言われるです。もうそれはとてつもない大きな船に乗っておる。ところが私共はまぁ甲板に一杯そのう船室方には乗らずに甲板に乗っておる。ところがその甲板には手摺りが無い。いやぁこれが動き出してから孝少し揺れ出したらこれは危なかろう。と思うたらそれがまたとてつもない広い甲板になってです、例えばいわば落ちはしないだろうと思われる様なところで目が覚めた。「この世は徳の船に乗って渡れ」と仰る。
合楽に御神縁を頂いておる人、信心が浅かろうが薄かろうが、やはり一応はこの合楽という徳の船に皆んな乗せて頂いて居る様なものなんだ。今の今日貴方がお届けをされる、その事もやはりそうなんですよ。合楽の祈りの中にお互いこうやってあって、こういうおかげを受けておる。けれども藤島さんもうぼちぼちね、この甲板の上からそれはこの大きな船ですから、沢山の船室もあろうことでございましょうから、その船室に入らせて頂く収まらして貰う。どういう時でも不安の無いおかげ頂かせて貰える。
おかげに進んでいかなければならない事ではなかろうかと言うて、まぁ言うならそういうことのお気付けが、今朝からのそのお孫さんその事ではなかろうかと話したことでしたね。神様は絶えず成る程、御神縁を頂いておる限り、甲板上にはお互い出ておるですけれども、そこにはやはり不安がある。それは自分は信心を忘れとる様な事があっても、やはりその信心の神様の祈り、いや信心を頂いておるということは、この様に有り難い事だということを実感しなくても、甲板の上にゃおるんだと。
段々信心が分からせて頂いて、お互い船室に収まらせてもらう。いわゆるこの世をいよいよ徳の船に乗って渡らせて頂けれる、信心の喜びというものを頂かしてもらえる。それにはどうしてもおかげの喜びじゃあいかん。信心の喜びが身に付いてこにゃいけんのですよと。本当にもう危機一髪でございます。おかげを頂きました。成る程有り難い。けれどもそれはおかげの喜びである。そこにです信心の喜びというものを、お互いが感じさせて頂く事によって、初めて信心の有り難さというものが身に付いてくる。
いや信心の有り難さが身に付いて来る、信心を目指さなければならない。もう甲板上から船室に降ろさせてもらえる、信心の深さ広さ今朝からの御理解。深さ広さに触れていかなければならない。佐多さん所の娘さんが御神夢を頂いておる。その話を例話に今朝から話したんです。今3年生ですかね4年生女の子が居ります。先生御神夢を頂きました。と言うて朝の御祈念に参って来てお届けするんです。お魚を釣っておるのがちょうど水たまりのような所で魚を釣っておる。
そして釣れたのがいわゆる、メダカかジャコのようなものが一匹釣れたと。それから今度場所が変わって、今度はとてもとても深い深い川か、堀かは知れませんけれども、この深い深いと思われるところでお魚を、先生二時間も夢の中でそれを感じておるのです。二時間も釣りました。ところがそのう全然お魚が釣れないという、お夢でしたと言うのである。お互い信心させて頂いてね、おかげを受けるということは、決して棚からぼた餅と言う様なものじゃない。
そういう水溜まりの様な浅い信心で、どうして大きな魚がそこに住んでいる筈がないのだから。ところがちょっと拝んでから、ちょっとお参りしておかげを受ける、おかげを頂きたいというのは、それは丁度浅い水溜まりのような所で、魚を釣っておるようなものだと。いよいよ信心を広い深い、それこそ鯨でも住むような、大きな深い信心させてもろうて初めて大きな魚が得られる。そこには釣れようが釣れまいが、大願を秘めこむ人達がやはりちゃんと浮きを眺めて、いわゆる釣り三昧と申しますね。
釣りの三昧境に浸っておる、それのように信心三昧と、世界がそこからあるのだ。おかげじゃないのだ。そうしておることが有り難いのだ。信心を頂いておることが有り難いのだ。その有り難いという新鮮な餌を持って、大きなおかげを頂かせてもらう。釣り上げさせてもらう、というのが信心なんです。ところが放り込んおるか、放からかし信心なしちょる。わかっちゃおるけど、投げ込んじゃおるけど、その餌はもうぶよぶよふやけてなりしまったり。
もうその魚が突いて取ってしもうとっても、気がつかんなりちゃぁんとこうやってそのうしておったんではね、時々は上げて見て餌を取り替えたり、いろんな工夫がなさらなければならない。そこんところを今日私は皆さんに言ってる訳。私とても決してそう有り難い、信心を頂いておる事が有り難いばっかりではない。それは辛いことも、苦しいこともあるんだけれども。そこんところを辛抱させて頂くことによって、その辛抱させて頂くその向こうに、それは辛抱させてもらわなければ分からない。
味わいのものが頂けると言う事と同時に、例えば私はこりゃ例えば四時なら四時に御祈念をさせて頂くでも、そこに工夫がなされておる。そりゃ五分前十分前に出て来ても良いけれども、やはり三十分前には出させて頂いて、四時の時間までじっと待たせて頂く、その間が私はこの頃楽しいと、皆さんに聞いてもらうのですけれどもね。そして四時の御祈念が、だから四時の御祈念はそれこそね、もう静かな静かな流れておるやら、流れておらんやら分からないような中にあっても。
私と神様とのもういわば交流というものは、もうその流れの底に誰もが分からない所に、私と神様のつながりがいよいよ深いものに、密なるものになっている。そういうおかげを頂いておるから、なら何時もそうかというと、さぁ十時になり十一時になり、もうここが変わる時期になって来ると、もう足が痛くなってくる、辛抱しきれないくらいになって来る事もあるけれども、そこをやはり辛抱させて頂く。そして最近のことあれば、一時の御祈念に私出て。
あのう塗反に写させて頂いております、いわば神ながらの御理解を頂くのでございますから。最近の御理解あのうでお気づきになっておられると思いますけれども、とりあえずねあのう頂きましたのが、あれがあのう「お道の社会の奉仕というのですかね、そういう意味で全国の盲さんの学校ですかね、点字になっていろんな良い書物が出されていると
言う様な事があっておる。それを今度合楽からでたあのう御理解感話が点字になったと。だからあれは半分ですから、後の半分が出来たらすぐ送って下さい。
というお話しを頂いておるのです。ですからもうここまでで、合楽の人は分かるだろうけれど、盲さんが点字を見ながら、はぁ金光様の信心ちゃ有り難いということが分かってもらうためには、噛んで含めるように、やはり説明を加えておかなければいけないだろうというので、また頂いた本に高橋さんと私で例えば、またいろいろ工夫させて頂いて最後に付け加えたりしておりますがね。そう言う様なおかげを頂かなければいけないから、とても私がきつかったり、眠かったりこげなこと出来る事じゃなかです。
そのことが私は頂けない。毎日で考えておってもそのうそれこそ、ぶっつけ本番であれを頂いておるのですからね。ですからやはりそのう一時の御祈念にも、もうきつうして下がって御飯を頂いたばっかりに、眠気のさるかった所へ何とか工夫しなければ、ここへ出てこられないのである。そこに工夫がいる。さっきも申しましたように何を頂いても美味しい、有り難いという時もありゃ、そこにお惣菜の一つも色々工夫されて、目新しい物をね作らなければそのう喉を越さん。頂けない時もやっぱりあるのですから。
やはり本当に願われる事は何を食べても有り難い。何時でもというものでなからなければならんのですけれど、それは人間の生身の悲しさですから、そこに工夫をしなければならない。そして次の御祈念の時もやはり斬新な、新しい生き生きとした心で神様に向かえる工夫をしなければならない。そしてここを私は二時に下がりますね。一時の御祈念が終わって、二時のお届けが終わって二時に下がります。そして二時間後にはまた四時の御祈念があるけんで、眠んなりですこれはまた私だけの御祈念ですから。
これはまた三十分間きちっと座って三十分間の間座ったが最後、神様との交流が始められるような状態をね、もう作る準備が始まっとる。今日私ここを四時、五時ですかね下ってそれから、奉仕着がとれまして、それからあのう寝室にある所で椅子にかけさせて頂いて、もう風呂が湧いたから入れ入れと言われよったから、ハイハイと言いながらね、恐らく眠っておったのじゃなかろうかと思うんで、今でもわからんどげんして倒れたか。そしてから倒れて自分では一生懸命。
確かテレビの間に豊美がおったようであったから、豊美、豊美とおらんでるけれども、誰にもそれが聞こえんのです。それからほっと自分が本気が出てから、起き出しもうとにかくもう、こんなにして転んでおるもんだから、もうあのう寝室の壁で頭ども打っとったら大事じゃったと思う。やはりそういうふうにですね、そのう眠いきついがそこに溜まっておるもんですから、そう言う様な事がある。
やはり信心のそこに隙というか油断というものが、そこに出来ておると言う訳なんです。だと私は思うたんです。まぁおかげでそのう事無しに済ませて頂きましたけれどもです。ですからもう信心はもう油断も隙も出来ない。信心を頂いておるということは有り難いと何時も思えれ。おかげを頂くためには、それぞれのやはりそれぞれの工夫がなさらなければならないということでございます。
さぁ一時の御祈念だと言うて、皆さん方が集まってみえられます。出掛けに水かぶって見える方もありましょう。一時前何分かに着こうとそれを修行としてなさっておられる方もありましょう。これは皆さんの御信心の進まれる場合であっても同じ事。神様の前に出られる前に、先ず一つの修行なり工夫がなされておかなければならない。でなかったら本当に信心を頂いておる事の有り難さというものは望めない。
ですから何かのそこに工夫それは例えば何を食べても美味しいというのが、これは健康状態のものであったら誰でもそうなんですけれども、なら何時もかつも健康と言う訳にはいけんのである。今日は何も食べたくなかと言う事がある。けれどもお父さん今日は冷たい素麺が出来ておりますよ。とこう言われてみるとなら素麺だけでも頂こうかと言う様にですね。そこに工夫がなされておって初めてそれを頂く。頂いてみりゃまたそれが有り難い、そしてまた御飯まで頂いておる。信心も同んなし事。
そういうね絶えず信心を頂いている事が有り難いという境地を目指して、そういう工夫がなされなけらばならないということを、皆さんに聞いて頂いたんですけれどもね。どうぞお互い去来藤島さんのあれじゃないですけれども、お互い甲板上に、自分達はまだ甲板上におるとじゃろうくらいな気持ちの人はですね、もう一段深いもう一つ下の方には立派な、危険を感じずに済む不安を感じずに済む、船室があるはずなのですからね、船室に収まらせて頂けるだけの信心を、お互い頂きたいものだと思うのでございます。
どうぞ。